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10箱根~14吉原

[ 2021 06 24~ ]

■10[箱根 湖水図](神奈川県足柄下郡箱根町)



[ 箱根 湖水図 ]


中央に芦ノ湖の湖面から急峻な山が立ち上がり、樹木も生えない岩山が多彩な色を使って描かれています。
山裾では険しい山間を縫って、編み笠をかぶった長い大名行列が通り抜けつつあります。
芦ノ湖の静かな湖面の先には、真っ白な富士山が見えます。



[ 箱根 恩賜箱根公園から(2021 06 24) ]


芦ノ湖の周りには、広重が描いたほどの急峻な岩山はありません。
中央の急峻な山は、樹木の少なさから駒ケ岳だと思われますが、街道の位置から考えると二子山のようにも思えます。
[箱根 湖水図]は広重が箱根峠越えの厳しさを表現するために、箱根に関連する様々な要素を集約して創りあげたのでしょう。



[ 箱根 江戸時代の石畳(2021 06 24) ]


旧・東海道は箱根湯本の三枚橋で早川を渡ると箱根の山道が始まり、約700mの高低差を登り箱根関所を経て三島宿へ向かいます。
現在では、三枚橋から畑宿までの道は舗装された道がほとんどですが、畑宿から元箱根港の間は今でも石畳を味わえる旧道が残されています。
すべてが江戸時代の状態で残るものではなく、多くの区間は補修されて手が加えられています。
江戸時代から使われている石畳は、角がとれ丸くなった石が多く滑りやすいので現代の靴でも苦労します。
箱根の石畳は、欧米の市街地で見られるような規格に沿った石が並ぶものとは異なり、大小さまざまな石が使われ表面の平坦さも道の勾配もまちまちです。
現代の靴底のしっかりした靴でも大変なのに、わらじでこの道を歩いていた昔の人の足は、どんな足裏だったのでしょうか。



[ 箱根 畑宿一里塚(2021 06 24) ]


アッピア街道で有名な古代ローマの街道は、軍隊の移動目的を主眼に造られたため騎馬隊や馬車・荷車が通行しやすいように石畳で造られ、自ずと道の勾配に限界があり平坦性が求められ、歩行者が歩く空間も設けられました。
しかし日本は山地が多く起伏がきついうえ急流河川が多く、さらに本格的な統一がなされた江戸時代は武器等の大量輸送を恐れた幕府が馬車の使用を禁止していたため、街道に求められたのは人間が歩くための機能だけでした。
箱根峠の旧・東海道は、雨が降ると泥濘となり旅人を悩ませたため竹が敷き詰められましたが、毎年敷き替えなければならないため、幕府により石畳が造られました。
歩く人を泥濘から救うだけの石畳なので、雨による崩壊を防ぐための簡素な排水設備がある程度です。
紀元前の古代ローマの街道に比べ、1900年以上も後に造られた旧・東海道ですが原始的で貧弱な石畳の道です。
道に求められる機能が欧州と日本では古来から異なっていたため、近世・現代の道にも大きな違いが出ているようです。


■11[三島 朝霧](静岡県三島市)



[ 三島 朝霧 ]


沼津方面から箱根方面へ向かう一行が、朝霧の中、三島大社の前を通過しようとしています。
一行は駕籠に乗る人、荷とともに馬の背にある人、荷を担ぎ徒歩で進む人など、当時の主要な交通手段が描かれています。
早朝に三島宿を出発すると箱根を越えて小田原宿までたどり着くことができたのでしょうか。



[ 三島  三島大社の鳥居(2021 07 22) ]


三島宿から箱根峠への道は、小田原側からの道に比べると急坂は少ないものの、坂道が延々と続き距離が長いので決して楽な道程ではありません。
三島側にも石畳の残る区間がありますが、小田原側に比べると歩く人は少なくすれ違う人はほとんどいません。
国道1号とほぼ並行し路線バスも少なからず走っているので、観光地としての条件は小田原側と同じような気がしますが、小田原側は箱根湯本などの温泉地を抱え、東京から近いこともあり多くの観光客を引き付けているようです。



[ 三島  三島スカイウォーク(2021 07 22) ]


三島側の観光スポットは、眺望が売りの吊り橋である三島スカイウォークがTVで取り上げられる程度ですが、他にもいいところがあります。
三島スカイウォークの箱根峠寄りにある山中城址です。
旧・東海道のすぐ脇にある北条氏の城址で、秀吉の小田原攻めの際は圧倒的な兵力の前に半日で落城してしまいました。
石を使わず土だけで造られた珍しい城で、発掘調査によって400年前の遺構が復元整備され、きれいな状態で一般公開されています。



[ 三島 山中城址(2021 07 22) ]


三島宿は三島大社を中心に旧・東海道沿いに広がっていましたが、東海道線が開通した当初は御殿場経由だったため、駅は三島大社から離れたところ(現・下土狩駅)に造られ、三島宿は寂れてしまいました。
その後、東海道線のスピードアップのため丹那トンネルが掘り始められましたが、新たな東海道線は函南駅から沼津駅までをほぼ直線で結ぶルートで、三島市街から外れたところを通過する計画でした。
当時の三島町は積極的な誘致活動を行い、ルートが変更され現在の位置に三島駅が誕生し、さらに東海道新幹線の追加新駅が造られ、鉄道の利便性は大いに向上しました。
旧・東海道の宿場、東海道線の駅、新幹線の駅で今日の三島のように成長したようです。


■12[沼津 黄昏図](静岡県沼津市)



[ 沼津 黄昏図 ]


月が昇り始めた黄昏時に、大きな赤い天狗の面を背負った旅人らが、狩野川沿いの東海道を沼津宿へ向けて歩いてゆく姿が描かれています。
対岸の香貫山の裾野と思われるところは、対照的に暗く深い森として描かれています。



[ 沼津 狩野川(2021 07 22) ]


現在の狩野川は、これまでの洪水被害もあり高い堤防が築かれていますが、江戸時代に沼津宿があった付近はもともと高台なので堤防はありません。
[沼津 黄昏図]がどこから描いた構図なのかは分かりませんが、橋の先が沼津宿の家並だとすれば、橋の手前の家が建っているところは三園橋から黒瀬橋の右岸側にある低地のようです。
広重が深い森を描いた左岸側にも現在では市街地が広がり河口まで高い堤防が築かれています。
明治初期は水田として使われていたところですが、宅地化が進み住宅を主体に多くの家屋が広い範囲に建っています。



[ 沼津 黄瀬川大橋(2021 07 22) ]


狩野川は高い堤防が造られていますが、洪水ハザードマップを見ると川沿いはほぼ全域にわたり1m~5mの浸水が想定されています。
沼津宿付近は現在でも浸水のおそれがないところで、先人の水害に対する配慮がうかがえます。
沼津市は1958年の狩野川台風をはじめ、台風や集中豪雨による水害に見舞われてきました。
近年でも2021年7月3日の梅雨前線豪雨により、沼津市と清水町境に架かる黄瀬川大橋は橋脚が沈下したため、橋がV字型になり通行止めとなりました。
あちこちで河川の整備が進められていますが、水害がなくなることはありません。



[ 沼津 沼津駅北口(2023 07 23) ]


沼津宿は東海道線の南側に広がっていましたが、太平洋戦争の空襲により沼津市は市街地面積の89.5%を焼失したため、東海道の名残は道路際に建てられた本陣跡などの小さな石碑だけです。
戦後に発展した駅の北側には、「リコー通り」という企業名を掲げたゲートがあります。
(株)リコーが進出した際に、道路舗装に関する寄付金へのお礼として名付けられたそうですが、現在ならばネーミングライツの対価として、道路管理者にお金を払わなければならない状況です。
「情けは人の為ならず」でしょうか。


■13[原 朝之富士](静岡県沼津市)



[ 原 朝之富士 ]


雄大な白い富士山と愛鷹山の裾野が広がる芦原では、2羽の鶴が餌を啄んでいます。
その風景をバックに、母娘と荷を担ぐお供の男の三人が話をしながら西へ向かう姿が描かれています。



[ 原  原駅前から富士山方面(2021 07 23) ]


[原 朝之富士]は富士山と愛鷹山の位置関係から、JR東海道線の原駅付近から富士山を見ているようです。
沼津市の狩野川河口から富士市の田子の浦にかけての海岸は、『千本松原』と呼ばれる松原が約10kmに渡り広がり、原駅はその中ほどにあります。
『千本松原』の内陸側には、沼川が海岸に並行して東から西へ流れ田子の浦で海に注いでいますが、沼川沿いの土地は海岸側より低くなっています。
このため排水が悪く、東田子の浦駅の北には沼もあり一帯は浮島低地と言われる低湿地でした。



[ 原 昭和放水路(2021 07 23) ]


江戸時代から新田開発が進められましたが、本格的な排水改善は昭和に入り進められ、太平洋戦争中の1943(s18)年に完成した昭和放水路、1963(s38)年に完成した沼川第2放水路により、二毛作も可能になるなど改修の効果がありました。
しかしその後の高度経済成長期に、企業の進出、団地・住宅の建設が進められるなど市街地が拡大したため浸水被害が生じ、現在3本目の新しい放水路の工事が進められています(HPでは平成44年度完成予定)。
旧・東海道と昭和放水路の交差部には、幕末に排水路の工事に尽力した増田平四郎の像が建っています。
放水路の際は木々が大きく育ち、人工の水路とは思えない様相になっています。



[ 原  原駅付近断面図 (高さ15倍 海岸ー愛鷹山) ]


原駅付近はこのような水がはけにくい地形のため、旧・東海道とJR東海道線は海岸沿いの小高いところを通り、戦後に造られた東海道新幹線と東名高速道路は愛鷹山の裾野を通っています。


■14[吉原 左富士](静岡県富士市)



[ 吉原 左富士 ]


馬子が三人の子供を乗せた馬を引き、富士山を左手に見ながら曲がりくねった松並木の間を進んでいます。
街道の両側は水田が広がる平坦な地形で、様々な形の松が高い密度で並木を作っています。



[ 吉原 左富士(2021 07 23) ]


江戸から京都へ向かう旧・東海道で左側に富士山が見える[吉原 左富士]は珍しい構図です。
[吉原 左富士]が描かれたと考えられている場所は、今では交差点の一角に数本の松が残るポケットパークとして整備されています。
松の樹齢は不明ですが、富士市の景観重要樹木に指定されているので、江戸時代からの松があるかもしれません。
延々と描かれていた並木の松は、ここに残る松以外は全く残っていません。
昭和20年代の空中写真を見ても、街道沿いには家屋が並び松並木らしきものは見当たらないので、かなり昔に伐採されてしまったようです。
この場所は、現在では工業団地の中にあり、大小の工場・倉庫・住宅がまわりを取り囲んでいます。
天気が良ければ工場の屋根の上に富士山が見えるそうですが、撮影した日はあいにくの天気で富士山は雲に隠れていました。



[ 吉原 現在の吉原宿(2021 07 23) ]


江戸時代に東海道が整備されたときは、吉原宿は現在のJR東海道線吉原駅付近にありましたが、1639年、1680年の高潮により大きな被害を受け、その度に宿は内陸側に移転し海岸から大きく離れた場所になりました。
このため、東海道は海岸から北に向けて進むことになり、[吉原 左富士]の構図が見られるようになりました。
吉原宿は左富士が描かれた場所の北西、岳南鉄道の踏切あたりから始まり、現在の沿道は防災建築街区として建てられた街並みで、550mに渡り防火帯が形成されています。



[ 吉原 製紙工場(2021 07 23) ]


吉原宿があった吉原市は1966年に富士市・鷹岡町と合併して新たな富士市になりました。
地下水の豊富な富士市は製紙工場が多く立地し、1960年代から田子の浦のヘドロ問題に代表されるような公害が発生し大きな問題となりましたが、今日までに大きく改善されてきました。
今でも市内とその周辺には多くの製紙工場が操業し、背の高い煙突が富士市の産業の勢いを示しています。






<参考資料>